自由奔放な予想不可能な発言と料理で、私たちを楽しませてくれる平野レミさん。
レミさんの夫や息子さん、そのお嫁さんをみると、華麗なる一族であることがわかりませんが、実はレミさんの父親も著名人であることをご存じでしょうか?
本日は平野レミさんの父親、平野威馬雄(いまお)さんについて、こんなことをお知らせしていきます。
平野レミさんの父親は平野威馬雄(いまお)さん!
父親は平野威馬雄(いまお)さんはアメリカとのハーフ!
平野威馬雄(いまお)さんは詩人でフランス文学家!
【画像】平野レミの父親は威馬雄(いまお)で日米のハーフ!
本名:平野威馬雄(いまお)
ペンネーム:松戸淳
生年月日:1900年5月5日 (1989年11月11日 86歳没)
出身地:東京都東京市赤坂区
学歴:上智大学文学部ドイツ哲学科(1928年卒)
職業:詩人、フランス文学者
平野威馬雄さんは、アメリカ人法律家で日本美術に造詣の深い父・ヘンリー・パイク・ブイ氏と、2番目の妻で大正天皇の女官だった平野駒さんとの間に生まれました。
威馬雄さんも二度の結婚をしており、平野レミさんの母親との間には2人、前の妻との間には6人と、子だくさんです。
威馬雄さんは子供のころ、父親に「レミ」と呼ばれていましたが、それは児童文学『家なき子』の主人公の名前です。
自分にとっても思い出深い名前を娘・レミさんに名付けたのです。
幼児期よりハーフとして幾度となく差別を受けます。
小学校は、3年生から編入でハーフが多いカトリック系ミッションスクールの寄宿舎にはいりましたが、学校になじめず、教師たちや保護者達の陰湿な悪性ぶりを後に著書で批判しています。
暁星中学校時代は国語教師から文才を認められ、『平家物語」など日本の古典からフランス語の原書まで読みこなすほど優秀でした。
しかし、同級生に外国人特有の容姿をからかわれたり、非国民扱いを受けます。
1920年、文壇デビュー。また同人誌『青宋』を発行、自由詩運動に力を注ぎます。
自身がハーフで、戦前戦後と激しい差別を受けたことから、アメリカ占領時代に生まれた貧困と差別の中にいる混血児たちの救済支援に尽力しました。
また自叙伝『レミは生きている』は第6回サンケイ児童出版文化賞を受賞。
平野威馬雄さんには、松戸淳というもう一つの名義がありますが、好色文学を翻訳する際使用した名義です。
1986年11月11日、心筋梗塞で他界します。86歳でした。
【画像】平野レミの父親は詩人でフランス文学者!代表作の本は【レミは生きている】!
1920年の文壇デビュー作は、新潮社の『モーパッサン選集』です。
初期の頃は翻訳本が多く、父(平野レミの祖父)と個人的に交流のあったジャン・アンリ・ファーブル(ファーブル昆虫記の著者)関係の著作の翻訳を手掛けたことでも有名です。
また1922年には、エドガー・アラン・ポーの著『モルグ街の殺人』を翻訳しました。
日本研究に関する著も多く、『平賀源内の生涯ー蘇る江戸のレオナルド・ダ・ビンチ』を1989年に出版したほか、8冊の著書があります。
しかし、それ以上に多く出版しているのが、超常現象に関する本で、22冊もの著書を出版しました。
「お化けを守る会」の世話人頭を務め、心霊現象のほか、日本空飛ぶ円盤研究会、宇宙有効協会(CBA)の会員としても活動していました。
平野レミと父親・威馬雄との驚きのエピソード!
平野威馬雄さんの娘・レミさんによると、父親はとにかく明るくて楽しいお父さんだったと言います。
自宅にはフランス人の訪問者がやまず、日本では手に入らないフランス音楽のレコードが鳴っていました。
レコードの真似をして歌っていたレミさんは、後にシャンソン歌手としてデビューしました。
レミさんが高校2年生の時、先生と意見がぶつかり学校を飛び出してしまいます。
その後、毎日学校に行かず、電車に乗って時間をつぶしますが、ある日父親の威馬雄さんに、
「学校やめたくなっちゃった」
と告白しました。すると何も理由を聞かずに
「やめろ」
と言ってくれたそうです。威馬雄さんはレミさんに
「学校をやめる代わりに好きなことを徹底的にやれ」
と言いました。
火葬のあと、父の死を悲しみ別れを名残惜しんだ平野レミさんは、威馬雄さんの遺灰の一部を食べてしまったといいます。
悲しみが最大に達するとそうなるのかもしれません。遺灰を口にするとは驚きますが、父娘の愛情が深かったのでしょう。実にレミさんらしいエピソードといえます。
本名:和田レミ(旧姓:平野)
生年月日:1947年3月21日(2024年現在 77歳)
出身地:東京都台東区
学歴:東京都立上野高等学校中退
職業:タレント、シャンソン歌手、料理愛好家
まとめ:【画像】平野レミの父親は威馬雄!日米ハーフの詩人でフランス文学者!
本日は料理愛好家でシャンソン歌手の平野レミさんの父親・平野威馬雄さんについて、お知らせしてきました。
日米のハーフであり、幼少期は差別に苦しみ、後に混血児の救済に尽くしたこと。フランス文学と日本文学に関する著書が多数あり、詩人でもあったこと、そして、レミさんにとってはかけがえのない父親であったことがわかりました。
レミさんのあの明るさは、威馬雄の愛情があったがゆえかもしれません。
そして父親に言われたとおり、恐らくレミさんは好きなことを徹底的にやってきたのでしょう。そうでなければ、私たちの知っている今の平野レミさんは存在していないでしょう。
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