英国留学時代の思い出をつづった著書がベストセラ―となり、メディアに登場されることが増えた、三笠宮彬子女王殿下。
また父親の寛仁親王殿下についで親子二代で、民放TV番組「徹子の部屋」に出演されました。
父親との思い出も語られましたが、母・信子妃のことには一切触れられません。
母娘の確執はすでに20年となり、言葉を交わすこともないといいます。このまま三笠宮家はどうなっていくのでしょう。
本日は三笠宮彬子女王殿下と母親の信子妃の確執についてお伝えしていきます。
三笠宮彬子女王殿下のプロフィール
名:彬子(あきこ)
身位:女王
敬称:殿下
御印:雪
出生:1981年12月20日(2024年現在 42歳)
出生地:東京都
学歴:学習院大学文学部史学科卒
オックスフォード大学大学院博士課程修了
栄典:勲二等宝冠章
三笠宮寛仁親王と信子親王妃の第一子として誕生。現在未婚の皇族女子の中では最年長。
今上天皇(徳仁)の再従妹(はとこ)。つまり父親の寛仁親王は、今上天皇の従兄弟(いとこ)にあたります。
そして大正天皇の曾孫であり、現皇室典範における初めての女王です。
多様な公務の他、グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班に所属。データーベースか作業を行う。
三笠宮寛仁妃信子(彬子女王の母親)のプロフィール
名:信子(のぶこ)
身位:親王妃
敬称:殿下
御印:花桃
出生:1955年4月9日(2024年現在 69歳)
出生地:東京都渋谷区
学歴:聖心女子学院初等科、中等科、
英国ランカシャー・ロスリンハウス・コレッジ入学
麻生セメント会長・麻生賀吉の三女として生まれました。母親は、第45代内閣総理大臣の吉田茂の三女。実の兄は、元総理大臣の麻生太郎氏です。
1972年2月、16歳のとき寛仁親王にプロポ―ズされるが、まだ高校生ということもあり延期。寛仁親王は信子妃の両親を説得し、婚約は8年後の1980年、成婚は同年11月7日。
1981年に長女彬子女王、1983年に瑤子女王を出産しました。
三笠宮寛仁親王(彬子女王の父親)のプロフィール
名:寛仁(ともひと)
身位:親王
敬称:殿下
御印:柏
出生:1946年6月6日(66歳没)
出生地:神奈川県三浦郡葉山町
三笠宮崇仁親王と妃百合子の第1男子。上皇天皇は従姉妹。
「ヒゲの殿下」の愛称で知られ、スポーツ、特にスキーに熱中されました。
スポーツの振興と障害者福祉の公務に積極的に取り組まれました。
晩年は、癌やアルコール依存症に悩まされ、入退院を繰り返しました。2012年6月6日、多臓器不全で薨御。
三笠宮彬子女王殿下と母親信子さまの確執は?原因は父母の不仲から始まった?
もともと、寛仁親王殿下と信子妃はたいへん仲の良いご夫婦でした。
そして母娘の関係も大変良好なものでした。
母娘関係にひびが入ることになった発端は、1991年寛仁殿下が食道がんを患われたことにさかのぼります。術後は食が細くなり、一日6回に分けて食べなければなりませんでした。
料理本も出版するほど料理が得意な信子妃は手作りの食事で、殿下に献身的に尽くされました。
心をこめて作った料理を「うまい」と言っていただいたのが嬉しかった、と語られています。
2015年6月16日の「週刊現代」では、寛仁殿下の知人が次のように明かしています。
当時、信子妃殿下がその食事の用意をして看病するなど、『非常に信子には感謝している』としみじみと言っておられたんですよねぇ。 情報引用元:週刊現代
その後、寛仁殿下の癌はあちこちに転移し、数回にわたり手術を行いました。
そして、度重なる手術と治療に疲れたせいでしょうか、アルコールに依存するようになったのです。
お二人の関係にひびが入りだしたのは、寛仁親王殿下のアルコール依存症になったことが原因といわれています。
9月12日の女性自身では、寛仁殿下と親交のあった男性が次のように明かしています。
信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院していただいたようですが、実際は依存症治療のための入院であることを知った寬仁さまが激怒されたのです」
情報引用元:https://jisin.jp/
それ以来、夫婦喧嘩が絶えなくなり、亀裂は徐々に大きくなっていきました。
2015年に「週刊文春」が、寛仁殿下のDV(家庭内暴力)が原因と報じました。
しかしそのすぐ後、彬子女王は「週刊新潮」の取材で完全否定したと、2024年9月12日の女性自身で述べられています。
「私が見ていた限り、父が母に対して手を上げたことは一度もありませんでした」
情報引用元:https://jisin.jp/
2004年から信子妃は別居生活を始められます。
これが彬子女王と母親との断絶の始まりとなります。この時、今ほど深刻な事態になるとは、恐らく想像していなかったことでしょう。
三笠宮彬子女王殿下と信子さま現在も別居で母娘断絶20年!
彬子女王は、父親の寛仁殿下を敬愛していました。
そして、病気で大変な父親を置いて出て行った母親を許せなかったことが、母と娘の深い確執を生んだといわれています。
最初は信子妃の病気療養という理由で、宮廷を離れ軽井沢町にある相馬家別邸に移られます。一過性脳虚血の発作のためでした。
その後更年期障害が重なり、そのまま2006年まで静養をつづけます。
2006年8月、2年ぶりに宮廷にもどりますが、公務は欠席されたままでした。
更に、気管支喘息を患い入退院を繰り返すなどで、姉や兄たちの別邸に長期滞在します。東京に戻っても宮廷には戻らず、宮内庁長官公邸を居住しました。
2012年には夫・寛仁親王殿下が危篤状態に陥りました。信子妃は急遽タクシーで病院へ向かいますが、”ご家族の意向”により対面はかなわず、そのまま寛仁殿下は薨去。喪主は長女・彬子女王が務め、信子妃はご葬儀に参列されていません。
”ご家族の意向”が、寛仁殿下の意向なのか、彬子女王と瑤子女王の意向なのかは定かではありません。
実は、信子妃が娘たちに虐待をしたと報じた情報誌があります。
信子妃による「2人の娘に対する精神的虐待」があったと報じた情報誌『インサイドライン』が、関係者の注目を集めている。
同誌はこう書く。
〈暴力は伴わないものの、娘達を立たせたまま数時間も説教したりするなど、母親としての躾・教育を逸脱した精神的虐待を日常的に繰り返していた〉
〈2人の女王殿下が成人後に初めて父親に打ち明けて知ったことだったという〉
情報引用元:https://gendai.dedia/
娘たちへの虐待を聞いて寛仁殿下は、信子妃の臣籍降下も検討しました。
娘からの告白を聞いて、寬仁親王は信子妃の臣籍降下を考え始めたというが、二人の離婚が認められることはなかった。 情報引用元:https://gendai.dedia/
また2024年9月12日のヤフーニュースでは、母親の信子妃が、現在の住まいを改築するというニュースがありました。宮廷を離れ別居をしすでに20年。仮住まいのはずの住居を改築するとは、宮廷にもどるつもりはないということの意思表示でしょうか。
母と娘は公務で、同席することはあります。しかし、言葉を交わすどころか、目もあわせない、との証言があります。
それほど亀裂が深く、修復不可能な状態です。
まとめ:三笠宮彬子女王と母親信子妃の確執は?現在も別居で母娘断絶20年!
本日は三笠宮彬子女王と母親・信子妃の関係について、お知らせしてきました。
事の始まりは、寛仁殿下のアルコール依存症に始まった夫婦喧嘩。
また寛仁殿下のDVや、信子妃の娘たちへの精神的虐待があったのではとも言われていますが、真相を語る人はいません。
20年も言葉を交わさないでいては、この関係を修復するのはかなり困難なことでしょう。
コメント